おかげの泉 第七号 昭和四十五年六月九日 朝の御教話より
X御理解 第三十六節 「日本国中のあらゆる神を皆信心すると言うがそれは余りの信 心じゃ人に物を頼むにも一人に任すと某人が力を入れて世話 をして呉れるが多くの人に頼めば相談にくれて物事捗らず大 工を傭うふても棟梁が無ければならぬ草木でも芯というたら 一つじゃ神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けられる
あちらの神様、こちらの仏様と、沢山の神様仏様にお頼みすると、それだけおかげは頂けそうにあるのですけれども、そういう事ではおかげは受けられん、一心と定めいと、縋るのは此方、頼むのは此方一心と定める、それは丁度、家を建てるにも棟梁がなからなければならないように、又は物を頼むにも人に任すと、その人が力を入れ責任をもってやってくれるけれども、あの人にも頼み、この人にも頼みという事では物事相談にくれて捗らずと、そういう道理をここには説いてありますが、こうして皆さん、朝参りをなさる程しの人達でしたら、もう金光様の御信心一本に、決まっておる方達ばっかりとこう思うのです。金光様の御信心、一心一本に、言わば決まっておるからこそ、こうして一途に合楽々と、合楽に皆さんが集まって見えられる訳なんです。ところがです、これは又私共の知っておる限りの沢山なお道の信奉者の事を思いますに、もうあちらは親の代から、金光様、いや、もうおじいさんの代から金光様言うなら、親、子、孫、続いて金光様の御信心一本で来てある人だけれども、おかげを受けられんという家は沢山あるという事です。
ですから、そういう事になると、いかに教祖様は、嘘の御教え、嘘の御理解を説いておられるように感じられます。その一心を出すと直ぐにおかげが受けられるぞと言うておられるが,直ぐには受けられていない。
いわゆる、親、子、孫、三代続いて金光様一本で来とりますという家は沢山あります。御信者の中には・・・・・そんなら皆さんだってそうでしょう。もうここ椛目、合楽を通して二十年になりますが、その二十年間、言わば一心に合楽々と合楽に一心を定めておられても、やはり、おかげの受けられない人も沢山あります。
してみると教祖様は、嘘をおっしゃっておられる。これはまあ、私の考えですけれども、教祖様が嘘をおっしゃるはずはない、神様から、直々頂きになった御教えだし又、そういう事にヒントを得て、御理解下さってあるのであるから、もう絶対のものとして、私共は頂いております。
ですから私共は教祖様が教えて下さる事を本当だという、その真実をですねぇ、真実として本当にそれを信心の上に、おかげの上に顕していくと、教祖様のおっしゃったそのお言葉の裏づけをしていくあかしを立てていくという思いでおります。
教祖様はもう一言一句、嘘をおっしゃってはいない、それを、私は実証していく事が本当の信心だと思う。私自身又、それを実証してきておる訳でございます。このようなおかげを受けられると、私自身がおかげを受けて来たんです。
そこでそんなら、この三十六節のね、ここのところを私はどこのところに間違いがあれば、おかげが受けられんのであろうかと、一番最後のね、「草木でも芯というたら一つじゃ神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けられる」と、その一つじゃとか一心を出すと、というその一心という事は、どういうような事が私の信心を貫いておるものかという事です。皆さんはどう思われます?
合楽の信心の筋金の通っておるというか、その筋金の心になるものは何か、喜びの源泉、おかげのいわゆる源、と思われるようなものは、どこにこれは、合楽の場合、焦点がいつも置かれてあったかと・・・・・。
私共は、信心の先達、先輩に実に有難い手続きを頂いております事を、有難いと思います。九州の祖であるところの小倉の桂松平先生、この有難い信心を世界万国にも輝かさんと、一生をそこに信心の命をかけられた。その為には、前には進んでも、後にはひきませんといったような、いわゆる不退転の信心がその筋金をなしておりました。その教えを頂かれて、福岡に吉木栄蔵先生が、道を開かれた。そういう信心を元にして、吉木先生は四神様に頂かれた御教え「馬鹿と阿呆で道を開け」と、教えてあったその事に、いよいよ焦点を置いての、御信心であって、あのような道が開けて来た。そして、又、久留米も、その流れをくむ教会として、あのような御比礼を頂かれたのは、只々四神金光様が「石橋さん辛抱さえしとりゃ、どのような事でも整わぬ事はないぞ」と教えられた。もうそれが、言うなら、石橋先生のかけ守とすら思われるように感じられた。先生の信心を頂いてみると・・・・。
又その信心を頂かれた三井教会の初代教会長荒巻弓郎先生は「こりを積ますな、こりを積むな、身を慎め」というようにです、だんだん、その初代又は先覚、又は道の手続きの親達が、命をかけて守らせて頂いたそういう信心を、元にして、それぞれのそうした信心をなさっておいでられた。
そういうような事がですね、言わば、四人の先生方の御信心を申しましたが、そういう信心が、合楽の信心のやはり筋金になっておるという事です。それでそれをね、極端に表現するなら、私は馬鹿と阿呆で道を開けとおっしゃる、その事に徹してきた事だと思いますね。合楽の信心は・・・・・。
ですから言うならば、その馬鹿と阿呆で道を開けとおっしゃる、その馬鹿と阿呆の内容というものはですね、全ての事がね、その内容としてあるという事です。
私は今日、思わせて頂くのに、草木でも芯というたらひとつじゃと、神信心もこの一心を出すと、というところがですねぇ、私はもう、金光様一本だと言うだけの一心ではなくて、その金光様の信心を頂いて、その御教えのどれを、自分の一心と定めるかというところに置いておるかという事なんです。
私は今日、私の信心を振り返ってみますとです、馬鹿と阿呆でここのところを、それこそ一心と頂きぬいてきたという事、それを合楽で頂いておる言葉でいうと、成り行きを尊ぶとか、成り行きを大事にするという事になるのです。どのように歯痒い問題でも、どのように情けない事柄であっても、それを黙って受けるとか、有難く受けるという事は、馬鹿と阿呆にならなきゃ出来る事じゃない。ですから、その馬鹿と阿呆にならせて頂いておるその事がね、言わば私の信心の筋金であると、私は言うていいと思うのです、そこに一心がかけられる。
だから、金光様の御信心をいかに何十年、親、子、孫、と三代続いているならば、信心を頂いておりますと言うてもです、さあその一心では、そんなら、おかげを受けてないという事実があるじゃないか。
合楽でもそんなら二十年間という信心を頂きながら、もうどこにも参りもせん、拝みもせん、只合楽一本で来たという人達は沢山あります。けれどもそんなら、本当の意味に於いてのおかげになってないとするならです、その一心の、合楽の信心のどこを、一心に頂いておるかという事になるのです。そして皆さん、自分の胸に手を置いてごらんなさい、そこに一心をかけていない事を悟らにゃいけません。一心になっとる事もありゃぁ、なっとらん事もある。馬鹿と阿呆になるどころじゃない、それこそ赤面弁慶になって、その事に打ち向かっておる。私がどこが馬鹿ですか、というような生き方できておりませんかという事。
私は今日、この三十六節を頂いて、神信心もこの一心を出すと、とおっゃる、本当におかげの受けられる、内容を持ったところの一心、その一心がね、しかも、貫かなければ駄目だという事。私の場合はそれを貫いて来た、そう思います。
ですから言いますとです、その馬鹿と阿呆に本気でなると、本気で馬鹿と阿呆になろうぞと、ここに一心に定めるという事なんです。その一心を出すと、すぐにおかげが受けられるという事。どんな事があっても、どんな場合でも、どんな事柄でも、本気で馬鹿と阿呆にならせて頂いて、その事を受けていくぞ、頂いていくぞという一心なんです。その一心を出すと直ぐにおかげが受けられる。いわゆる一心発起、今日からは、本気でひとつ馬鹿と阿呆になろうと、それがどういう事かというと、成り行きを尊ばせて頂く事であり、成り行きを大事にする事なんだ。その事自体が神様を大事にする事であり、神様を尊ぶ事にもなるのだという事が、そういう結論が合楽で出てきた訳なんです。
さあ、ところが実際はなかなかね、どんなに思うても馬鹿と阿呆になれない。さあそこんところを、久留米の初代が、頂いておられるように、信心辛抱、「金光様-!」と、こうすがり願っていく事なんです。小倉の初代教会長である桂先生の奥様の桂ミツ先生がある難儀な問題で、もうとにかく、辛抱がしきれないというので、御本部へお参りになり、四神金光様へ、その事をお取次を願われた。
なる程、聞けば聞く程、辛抱が出来まいという事柄であるけれども、「ミツさんその事が苦しいか」とおっしゃった。「もう苦しいのだんじゃございません、他の苦労ならどんな辛抱でもしますけれども、この事だけはもう辛抱が出来ません」とおっしゃった。「さあ、その出来ぬ辛抱をさせて頂くのか辛抱じゃ」とおっしゃった。
「さあ、すぐ帰れ」と、桂ミツ先生をすぐ帰しておられます。もうこの事だけは辛抱が出来ない、他の事は、辛抱します、さあ、その出来ぬ辛抱をするのが辛抱じゃと・・・・だから、私共は、馬鹿と阿呆にならして頂くその内容としてです、もうこの事だけは、堪忍が出来ん。辛抱が出来んという事があるのです、やはり・・・いろいろな問題に直面した時に・・・・。
そこんところを、只、がむしゃらに辛抱するだけじゃない、神へすがって辛抱せいと、四神様が、おっしゃっておられます。神へすがって辛抱する、只の辛抱じゃ出来ん、神へすがって「金光様-!!」「金光様-!!」を唱えて、辛抱して行けと、久留米の初代なんかは、そこのところを頂きぬいておられた。
そして、だんだん、その辛抱すらもせんで済まれる程しのおかげを受けられた姿が石橋先生のお徳だと思います。そういう事はまだお話を聞いた事もありませんけれども、私は必ずそうだと思います。
はじめの間は、それこそ、泣く々辛抱であったり、辛抱の出来んところを辛抱しておられるうちに、お徳を受けられた、辛抱の徳を受けられた、そして、もう辛抱とは言わんでいい、辛抱せんで済む程しの大きな心というか、内容を頂いておられたのが久留米の先生の大徳の事だと思います。
そこでそんなら、三井教会の初代荒巻先生の頂いておられるその事もやはり、そうである。「こりを積ますな、こりを積むな、身を慎め」ところがなかなかこれは難しい、こりを積ますなという事なんか実に難しい、人にいやな思いをさせてはならん、人に腹を立てさせてはならん、というのですから、これは、大変に難しい事だと思う しかし、その難しい事にはやはり取り組んでおいでられた。その手はじめとして、こりを積むなというところに焦点を置いて、御自分のものになさったんではなかろうかと私は思います。ですから、私共でもそこのところはです、その気になれば、出来ぬ事はない。人にこりを積ませんという事は、難しいでも、自分がこりを積まんという事、そこが馬鹿と阿呆、そこが又、辛抱しなければならないところ、そうでしょうが・・・・。
今日の御教えはね、この一心を出すと直ぐおかげが受けられるという素晴らしい事を実証出来る御教えなんですよ。そんなら、今日はいっちょ馬鹿と阿呆になってみるか、と思うのもまあよかろう。けれどもね、もうこれから先、何年間もお道の信心を続けるかわからんけれども、これをひとつ自分の信心の、かけ守り、これをひとつ自分の信心の筋金、信条としてです、頂いていくぞと、それでおかげを受けておられるお徳を受けておられる先生方。同時にここでは現に私がです、自分の信心を振り返って見ると、やはり、そこにあったと、このような事にも馬鹿と阿呆になっておられそういうような事にもさわらんでおられる自分になっておるという事がです、自分で有難い。いわゆる有難いという喜びの源泉になっておる。勿論その有難いという心にはおかげがいやが上にも顕れてくる。いわゆる教祖の御教えを、いよいよ実証していく なる程教祖様は、嘘はおっしゃってないんだという事をです、私は実証してきておると自分で思います。
そこで、そんなら本気で馬鹿と阿呆にならせて頂こうと、そこに一心発起させて頂いて、さあ、その事に取り組ませて頂いてみるとです、やはり難しい事に気がつきます。ここじゃ、ひとつ、自分が言い訳せにゃ、ここのところは、誤解が出来とるのじゃから言い訳をして自分の顔を立ててもらわにゃという時もありますけれども、私もそこのところの体験を、何回通ったか知れませんけれども、なる程、その時は言やわかる。ああそういう事じゃったかと、誤解もとける。けれどもね、もう、その次にはわからない問題、言わば、誤解を受けなければならん問題が、もうその次には、出来ているという事、そして、繰り返しておるうちに、これは神様の御神意だな、御都合だなと、思わせて頂くようになった。
これは言い訳をしちゃいかん。本気でその事を通してです、磨かにゃいかん、改まにゃいかんという事になってくる。ここのところが一番大事なところだと思うのですよ。馬鹿と阿呆で言わば、もう受けていくと、もう底のぬけたような、言うならば、受け方というか生き方なんです。無抵抗主義という事になるかもしれません。
だからそれを、無抵抗と言うか、馬鹿と阿呆になっときさえすりゃというのではなくて、そういうもうここだけは、馬鹿になっておられん、というようなところをです神にすがって、辛抱していくという、その辛抱していく間に、私共は、本当の意味に於いての信心修行、いわゆるその時にです、その事を通して、その事柄を通して、いよいよ磨いていかねばならん、又、改まっていかねばならんのであります。
そこにです、いわゆる人間が出来てくるというか、いわゆる、魂が清められてくるというか、そして、清められてきたとか、改まってきたというように、だんだん、信心を進めていくうちにです、もうこれは、私共の体験でもありますけれども、どうしてこのような事があんなに歯をくいしばらなきゃならんごと苦しかったのじゃろうかという事になるのです。
結局は、自分の我情我欲、自分のきたなさですねぇ、もう歯痒いかったり、歯をくいしばらなければならなかったり、その歯をくいしばらなければならないような事柄は、だから、自分の内容にあったという事を、気づかせて頂いとります。だから、だんだんおかげを頂いて参りましたら、久留米の石橋先生の事を私が申しておりますように、信心辛抱が先生のかけ守りであったろうが、もう最後の頃には、おそらく辛抱せんで済まれる程しのおかげを受けていられたに違いないという事なんです。
私でもそうなんですから、・・・・・どうしてあんな事があんなに歯痒ゆかったじゃろうか、どうしてあんな事にあれほど、もう、本当にぐうぐう言うてこらえんならんごと、あったろうかと思うように、いやむしろ、お礼を申し上げねばならないような事に、ぐうぐう言うたり、歯痒ゆがったりしておる事に、驚きます。それは、その事を通して磨き、その事を通して、改まってきたから、それが出来る、限りなく美しゅうなるという事は、そのような素晴らしい功徳があるのですよ。
昨日、午前中の奉仕の時ある方が参って来た。もう十年も熱心に参って来る、非常に御理解頂くのを楽しみに参って来る、雄弁でもあると同時に、御理解を頂きこなす力を持ってござるという感じの信者さんです。ところが、最近その人の上にです、まあ、言うならば、大した事ではないけれど、次々と難儀が起こってくる、痛い痒いの事から、又その為に損をしなければならないとか、まあとにかく、それも家族の上に起こってくる訳です。「先生、最近日々お取次を頂いてお願いしますように、お願いをしましても、お願いをしましても、それが致命的というものではないけれども、何とはなしに言うなら、お気付の、頂き通しだ」という訳なんです。だから、お気付と気が付いておる、「先生、どんな信心をさせて頂きましたなら、おかげ頂きましょうか」というので、「そうなあ」と言うて、私その事をお取次させて頂いて、神様にお願いさせてもらいよりましたらね、御心眼に頂きますのが、テレビで今やっておりますねぇ、万国博の「太陽の顔」というのがあります。あれを頂くのです。
じゃははあ、これだなと、私は思うたんです。太陽の顔と言や天地の親神様の顔という事になりましょう。これを、仏教的と言うか、世間の諺で言うと、仏の顔という事にもなるでしょう。
だから、「ははあ、仏の顔も三度という事があろうがな」と、私は申しました。
すみません、すみませんばっかり言って、もう、それが二十ぺん三十ぺんじゃない もう、十年間も信心させて頂きながらです、すみませんで、そこに本気で一心に、その事を改まろうと、それに取り組んでいないという事なんです。お話を頂けば、頂く程、これは、取り除かなければおかげにはならん。これはおかげの受けられん癌のようなものだという事を、自分でも気がついている、知っている。知ってる事は知ってるけれども、お詫びだけはしよる、すみません、すみませんばかり。けれども、その心に本気で、それを取り除かせて頂こう、それを改まらせて頂こうという言わば一心発起という事がなされていない。だから、言うならばです、もう神様の顔も言うなら三度、三度という事は、三百ぺんと言うてもいいでしょう。
たいがい迄は、神様が辛抱して、まあ改まりを出来んなりにでも、願えば、おかげは下さったけれども、もう信心して、十年にもなって、そこを取り組もうともしない その心にです、神様が次々とこのようにお繰り合わせを下さるんじゃなかろうかねと・・・・・・。「は-っ」と、もう鶴のひと声です、「先生そうでした」と言うて帰った。どういう信心させて頂いたら、おかげになりましょうかと、こう言うておりますけれどもです、それは、自分の心の中にある。仏の顔も三度、と言う位じゃないか、それを神様には、只、すみません、すみませんばかりお詫びして、なる程、詫びれば、許してやりたいのが親心とはおっしゃってもね、詫びると言う、その裏付けというものはね、もういっちごしませんから、お許し下さいというのでなからにゃいかんでしょうが、言うなら・・・・、只、口だけ詫びとる、すみません、すみませんだけじゃすまされない。そこんところを神様が、もう十年もしたなら、それこそ、吾と吾心が拝める位にならにゃいけんのにです、丁度十年頃から、お気付を次々とこうして頂くという事はです、いよいよ本気でわからなければならない事がありませんか、それは、ここだ、そこだという訳なんです。
ですから、私共は、そんなら馬鹿と阿呆になろうと、本気で、一心発起させて頂いても、もう本当に馬鹿に、阿呆になれない。それこそ、歯を食いしばらなければならないような事があるけれども、そういう時には、そういう苦しい思いをしなけれはならない時にです、本気で、自分のおかげの受けられない内容というものを見極めて、そこに、改まり、いわゆるその事を通して、改まり、その事を通して磨いていこうとする姿勢が、信心させて頂く者の姿勢でなければならない。
そこからね、言わば辛抱せんで済む、いわゆる馬鹿と阿呆になっときゃええじゃない、もう、馬鹿と阿呆になると言う事すらいらない。昨日の朝の御理解じゃないけれども、それこそ、自然のリズム、いわゆる雨だれの音を聞きながら、何にも欲しいとは思わない程しに、おかげを受けておる自分が有難い。
“欲しいとも思わぬ雨だれの音を聞く”である、そういう私はね、おかげを受けて頂かねばならんと思う。
今日は三十六節の字句的な説明ではなくて、一番最後のところの、「草木でも芯と言うたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けられる」と、最後に結んでおられるその事がです、確かに自分の家は、もう、親、子、孫、三代にわたっての金光様一本で来ておる、そのような一心を立てておるにもかかわらず、おかげが受けられんのは、その事じゃない、その信心の中味であるところのものの一心がです自分の信心の中に、筋金として通っていないという事です、そういう一心だと。
今日は、そこのところを私は、本気でですね、いわゆる馬鹿と阿呆にならして頂く一心をね・・・・もう馬鹿と阿呆にならして頂く稽古といった生やさしいものじゃいけんと思うのです。馬鹿になれたり、阿呆にもなれたりといったような稽古じゃ駄目それに一心と定めなければ、そこに一心を出さなければ、金輪際これからの私の生き方の上にはです、そういう生き方でいくという一心を定めたら、直ぐにおかげが受けられるとおっしゃるから、本当かどうか一心を定めて御覧なさいという事を今日は申しましたですね。
どうぞ。